2023年3月25日土曜日

合衆国海軍通史 私家概要 1.6.アメリカ革命戦争(一七七五年~一八八三年)その二の二。大回転

  最初の同盟・戦争の大転回。

 一七七六年十月、全長僅か一〇〇フィート、三〇メートルに過ぎないブリッグ船、大陸海軍USS〈レプライザル(Reprisal)〉は、イギリス王立海軍の封鎖をくぐり抜け、フランスのナントへと舳先を向けていました。

 〈レプライザル〉の任務は乗りこんでいる客人をフランスまで連れていくこと。そう、その客人こそ大陸会議でも重要人物と目される人物でした。

 彼の名はベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)。

 アメリカ建国史を語る上で決して外せない、政治家であり外交官であり科学者であり著述者……とまあ、才多く博覧強記な人物でした。その彼が孫二人をつれてフランスへと渡るためにこのフネは一路、大西洋横断の任務についていたというわけでした。

 パリに着いたフランクリンの役目は大陸会議の弁務官(commissioner)として、かつ、連合諸邦・連合会議(大陸会議から名称がかわりました)の駐フランス大使としてフランスとの外交交渉を担っていたのです。

 彼は当時のフランス社交界において上手く立ち回り、この戦いにおいて大陸会議側へフランスを加担させようと外交活動に勤しむのでした。


 さて、ここで英国、大陸会議に加わるプレイヤーであるフランスはどういう状況だったのか。


 革命戦争前に発生した七年戦争でイギリスに敗北したフランスは海外植民地の北米大陸、そしてインドの権益を失い、その権勢を大きく失っていました。

 フランス国王、ルイ十五世は同じく敗退したオーストリアとの協調が必要になり、当時十四才の少女……オートラリア公女、マリー・アントワネットを幼いルイ十六世の妻として輿入れさせます。ところがそんなルイ十五世も一七七四年に天然痘で亡くなり、十九才のルイ一六世の治世が始まることになるのですが、国内はまだまだ不安定なものでした。

 またフランスでは敗北を受けてイギリスへ対抗するために様々な軍の改革が進むことになります。この改革は軍制度面のみならず兵器面でも発生しており、陸軍では後にフランス革命後の動乱そしてナポレオン戦争で効果を発揮するグリボーバル・システム――陸戦で用いる大砲の軽量化・規格化――が導入されるなどの動きがありました。

 海軍もまた同様で、フランスにしてみれば先の七年戦争においてイギリスに敗れたことの最たる理由が海軍にあることから海軍制度改革と戦力増強も並行して精力的に行われており、艦艇にしても先にお話したようにフリゲート艦などイギリス海軍に影響を及ぼしていたのも事実ですし、船員教育なども行われる一方、艦艇の建造も積極的で革命戦争が発生した一七七五年には戦列艦七五隻を配備するまでにその勢力を取り戻していました

 イギリスが七年戦争後に勝利したものの、王立海軍は予算が削られ、人員教育も艦艇整備もままならないことに比べれば大きな違いとも言えましたが、無論、その弊害は財政悪化に繋がり、回りまわって次なる大問題、すなわち革命へと繋がるのですが、ここではここまでと致しましょう。

 ちなみにイギリス海軍の艦艇整備がままならないのは予算不足もさることながら、一重に国内での造船に必要な木材供給がネックとなっていた形でした。

 国内のオーク木材供給は払底しており、一七〇〇年代初めに森林保護に取り組むのですが、これが実を結ぶのは百年あまり必要で、一八〇〇年ごろ、つまりネルソンの時代になってからでした。必然、北欧からのオーク材などを輸入するのですが耐久性は四分の一だったという記述もあり、これはイギリス海軍の艦艇配備と運用に大きな支障を与えることとなったわけです。無論、イギリスも手を打たないわけでもなく銅吹きと呼ばれる――喫水線の木材がフナクイムシに喰われることを防ぐため、薄い銅板を張り付ける――建造もはじまり、これによりフネの維持費(定期的に艦艇をドックに収容し、塗装や修繕をするサイクルが伸びますから)、そして海上での速度向上というメリットもありました。一方で海水中に銅と舵の鉄(釘も含む)があるとイオン電流として通電することにより鉄が錆てしまう現象にも苦しめられるのですが、それでもメリットは大きかったのです。

 (ちなみこの現象、ガルバニック腐食問題は異種金属腐食とも呼ばれて現在でも様々なトラブルの要因ともなっています。合衆国海軍LCS〈インディペンデンス〉は、アルミ船体なのですが、ウォータージェット推進がもたらすのせいで機関部の腐食に苦しめられていもいるのです


 さて、イギリスに対して捲土重来をはたさんとするフランスにとって、イギリスに対峙するアメリカ植民地群、大陸会議へ肩入れするのは敵の敵は味方、というわけで至極当然のことでもありました。とは言えそんなフランスにしてもイギリスと対峙するわけにもいきませんので、スペインと歩調を合わせてアメリカ大陸会議(後の連合会議)に対して西インド諸島経由で武器弾薬の提供を行う形となります。

 しかし、フランスにしてもそれ以上の協力は行われませんでした。当時、フランスには数週間遅れでアメリカ大陸の戦況が届くのですが、そのどれもがイギリスの勝利を伝えるものでしたし、なにより、アメリカ連合会議が『革命』と称して王権神授説を否定し、民衆による独立を目指す事は、フランス政治システムの全否定であることもあり、いくら憎きイギリスのためとはいえ中々受け入れられることは難しかったのも事実です。これは当時の欧州貴族界、国家の共通認識でもありました。


 そんなフランスに、フランクリンが到着して外交活動が始まるのでした。

 フランスでは後にお話するようにフランクリンの著作などが人気であったこと、フランクリン自身の魅力、自分の人気に気がついたフランクリン自身の自己プロデュース(瀟洒な服ではなく毛皮の帽子をかぶり、大西洋の彼方から来た異邦人、哲学者としてのイメージを保つようにしていました)もあり、貴族階級が集う社交界、サロンで大いに知己を得ることになります。


毛皮の帽子をかぶってフランス社交界で登場していたベンジャミン・フランクリン。

https://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Franklin#/media/File:Franklin1877.jpg (2023/03/10)


 とは言えフランス側も容易にアメリカとの同盟締結というわけにはいきませんでした。

 十一月にはフィラデルフィア失陥などの苦境の知らせが届く中、平然を装っていたフランクリンの心中はいかばかりか計り知れないものもありますが、続く十二月頭にサラトガの戦いでイギリスが敗れた知らせが届きます。パリにいるアメリカ側要員たちは歓喜したと記されています。その知らせはフランクリンへの大きな追い風でした。

 なぜならイギリス側もフランス国内にアメリカ独立派の重鎮であるフランクリンが滞在していることを知っていましたので、この敗北の知らせを受けて、彼らパリにいる大陸会議側に対して和平交渉として接触しようとしだしたのです。

 このイギリス側の動きに焦り出したのはフランス側でした。

 まだまだアメリカにイギリスと戦っていてほしいフランスは、同じくブルボン家の血筋であるスペインとの歩調がとれないまま、ここに来てついに単独での仏米同盟条約(The Treaty of Alliance with France)を結びます(一七七八年二月)。

 十三条にわたるその条約の内容は、フランスはアメリカの独立へ協力する、アメリカはフランスがイギリスと開戦した場合には協力する、両者とも互いの同意なしにイギリスと和解しない。通商面では互いに最恵国待遇とし、双方の港を開放する、といった内容で、これは建国しようとしているアメリカに対して不利のない、対等な条約と言えます。

 無論、幾つかの問題点はあり、その問題はその後のアメリカ・フランスとの関係に大きな影響を及ぼすのですが、これは後ほどお話するとして、この結果は非常に重要なものとなります。


 ここにアメリカ連合邦国はフランスから独立国として承認をされる形となったわけです。


 翌月に条約締結を知らされたイギリスは即座にフランスに対して宣戦布告を行います。

 翌年、スペインもフランス側に立って(一七七九年六月・アランフエス条約)イギリスに宣戦布告することになります。と、となるとどうなるか。イギリス海軍側艦艇数(戦列艦七五隻)を超える(戦列艦九〇隻)フランス・スペイン連合海軍が相手となるわけです。しかもその翌年にはオランダも加わることになりました。

 これはイギリス側にとっての悪夢のはじまりで、すなわちアメリカ大陸での戦いが今まで北部・中部・そして南部と分かれていたところに、さらに西インド諸島という戦域が追加されるだけでなく、イギリス本国の防衛も考えなければならない状況に追い込まれたことでした。

 何しろ、イギリス本国側の防衛を担当するハーディ提督の手元には戦列艦三九隻。一方、フランス・スペインはそれぞれ三十隻、三十四隻を数え、ドーバー海峡の支配権は二カ国の手に落ちた形となり、イギリスでは首都も含め沿岸地域に陸軍を配置せざるを得ない状況となります。しかもイギリス側の基本方針は艦隊を南西部のトーキィに待機させるがままという形となったために、フランスを拠点としてアメリカ側の私掠船、大陸海軍が展開することになるだけでなく、アメリカの支援、西インド諸島への艦隊派遣も妨害を受けずに行うことが可能になるのでした。

 イギリスは国際的に孤立無援という戦略的劣勢下に置かれることになります。


 ここにイギリス=アメリカとの戦いにおける大西洋における制海権はイギリスが占有するものではなくなるだけでなく、(大きな意味を含有する言葉ですが、ここでは海上権勢としての)シーパワーにおいて有利に立ったのは、アメリカ=フランス=スペインになった形でした。これは事実、後の戦いに(色々問題含みとはいえ)大きく作用する要因ともなるのでした。

 

 ……大陸会議のメンバーがどこまで、この局面への青図面、予想図を描いていたかはわかりませんが、恐らく大陸海軍を建設するために行っていた毎夜の検討会、あるいは独立を決意した中で、フランスを巻き込むことでイギリス有利の立脚点であるアメリカ東海岸におけるイギリスの海上権勢を削ごうと考えたのではないでしょうか? それはまだはっきりとした論がでていません。


 事実、フランスのアメリカ革命戦争への加担は、この戦い全般に大きく影響を及ぼすことになるのですが、その顛末については後程、語ることにしましょう。